昨日、私がPTA会長を務める厚南中学校研修旅行で明太子の「ふくや」を訪ねました。
同じようなPTAの旅行で何度か明太子工場を訪ねたことがありましたが、ふくや創業者の川原俊夫さんが明太子を考案し、世に広めた方だということを初めて知りました。
そして、俊夫さんの次男でる川原健さんが書かれた「明太子をつくった男 ふくや創業者・川原俊夫の人生と経営」を帰りのバスと昨夜で読了しました。
川原俊夫さんは、釜山で産まれます。釜山で売られていたたらこを唐辛子に漬けた「メンタイ」を原型に「明太子」を創作したのです。
川原さんは、妻と子どもたちを釜山に残して戦地へ赴きます。
川原さんは、宮古島の近くの伊良部島で終戦を迎えます。
作者の健さんは「沖縄までの航海が無事であったこと、最後の配属先が沖縄戦最前線の激戦地ではなく、後方支援であったことは、いずれも父の『運の強さ』を物語っているように思う。生死が隣り合わせの戦争では、生き残ること自体が奇跡だったのだ。」と書いています。
朝鮮半島に残された川原さん親子は、満州を経由して日本に帰ってきます。
健さんは、「日本の敗戦によって混乱していた中国から私たち母子が脱出できたこともまた、父の生還同様、幸運というよりほかはない。」と書いています。
福岡で再会した川原さん家族は、福岡市中洲市場で、「ふくや」という食料品店を始めます。
そこで、紆余曲折を経て「明太子」が生まれます。
健さんは、大学を卒業して銀行員をしていました。
俊夫さんと「法人化」をめぐり口論があったと書いています。
「高額納税者でることを誇るような口ぶりに、『税金を納めるのはバカじゃないか。もっと内部留保すべきだろう』というと、こっぴどく怒られた。『健、お前は道路を歩きよろう。橋も渡るやろう。道路も橋も税金でできとるったい』と。そのときは何を言っているのかと思ったが、父が他界して数年後、ある本で江戸時代の橋は、ほとんどが商人たちが個人の財力で架けたものだという記述を読み、ようやく父の気持ちが理解できた。税金を納めることで社会に貢献したかったのである。」
宇部市の歴史を見ても、宇部線や港の整備は、当時は、地元の企業が主に事業費を出して行っていました。
大企業の内部留保は400兆円を超えると言われています。
大企業に社会貢献のために税金を応分に負担してもらうことは当然のことだということがこの本を読んでわかりました。
俊夫さんは、博多山笠の振興に貢献した人でした。俊夫さんは家族や社員にこう言います。
「土地の文化や伝統は、絶対にそこの住民が守り継ぎ、残していかなければいかん。山笠に何かかったら財産は全部つぎ込む。」
私が、高校生の頃、私が住んでいた旧楠町に日本電気が進出してきました。
日本電気は夏に盆踊り「日電まつり」を行っていました。
臨時バスが出る賑わいでした。私たち若者のあこがれの祭りでした。
大学で県外に行き、宇部市内で就職した私は、いつ「日電祭り」が終わったのか知りません。
私が、宇部市会議員になった26才の頃には無くなっていたように思います。
このように、企業は、地域貢献をするのが常でしたが、今はどうでしょうか。
地域を顧みず、労働者を顧みず、儲けを最優先、収支を最優先する企業になっているのではないかと感じます。
最近の神戸製鋼の事案はその結末ではないかと感じます。
企業の社会的責任を考えさせる一冊でした。
この本を原作として、川原俊夫さんの人生を描いた博多花丸さん主演の「めんたいぴりり」というドラマが制作されています。
DVDで視聴したいと思います。
この作品は、博多座で上演された舞台にもなっていますが、昨日、従業員の方が「映画になることが決まりました。」とおしゃっていました。
ネットで検索してもその事はまだ公になっていなようですが、映画化されたら是非、観に行きたいと思います。
地域を愛した企業人・川原俊夫さんの人生には学ぶところが沢山さりました。
川原俊夫さんについて皆さんの感想をお聞かせ下さい。
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