山口民報の最新号に山口県障がい児の教育を進める会会長の山本祐三さんの「障害のある子らとみてきた風景」(第6回)が掲載されています。
山本さんは、総合支援学校などで長年、障がい児教育に携われてきました。
私も、県議会議員の時に、多くの事を教えていだき、質問にも反映したことが数多くあります。
私は、日本福祉大学で障害者福祉を学び、「発達保障」をライフワークのように学んでいるつもりなので、このシリーズは、興味深く読んでいます。
今回のテーマは「障害は個性か?」です。
現在、私は、西宇部校区人権教育推進協議会会長として、人権も学ぶ学習会に参加をすると「障害は個性です。」と断言される子講師の方がおられ違和感を感じてきました。
山本さんは次のように書いています。
「『障害』は個性ではないけれど異常でもありません。『障害=異常』というとらえ方は、人間の多様性を否定する能力主義一辺倒の人間観と深くつながっています。障害者を排除してきた政策や政治、人間観への反発から『障害を個性』と思いたい気持ちには深く共感します。しかし、障害にともなう生活上の様々な支障や不自由さの『事実』を見落とさないようにしなければなりません。」「一見魅力的な障害個性論は、私たちを『人と人との関係性』の世界に閉じ込めてしまいかねません。そこにヒューマニティはありすが、権利保障はありません。重要なのは、『人と社会との関係性」です。障害の事実を否定するのではなく、障害によって生じる社会生活上のバリア(障害)をどのように取り除くのか、その社会的責任を明らかにすることです。そして、社会保障、雇用や労働条件、障害者福祉等、すべての人々の社会参加に必要な制度・政策の社会的責任を免責させないことです。」
山本さんは、国連・障害者の権利条約の中から「合理的配慮」の部分を引用しています。
「合理的配慮とは、障害のある人が他の者との平等を基礎としてすべての人権及び基本的自由を享有し又は行使することを確保するための必要かつ適切な変更及び長生があって、特定の場合に必要とされるものであり、かつ、不釣り合いな又は過重な負担を課されないものをいう。」
先日、車いすの方が、空港で、上肢だけで階段を下りるように航空会社の方から言われたという出来事がありました。
障害が個性では済まされない、障がいを持っておられる方への合理的配慮は当然必要だと言えます。
障害者の方々には、権利があり、国などは、権利を保障するためにバリアを取り除く社会的責任があるのだと山本さんは書いています。全く共感いたします。
私は、大学で、発達保障論を学びました。
人間が発達する上で、個人と集団と社会の3つの系で考える理論です。
Aさんの発達を保障するために、Aさんを取り巻く集団や社会を変えていく必要があるという理論です。
Aさんは、権利を持った一人の人間である。Aさんを取り巻く集団や社会がAさんの発達を保障するものになるようにする。
こう考えてくると、問題は、障害者問題だけではなく、LGBTや女性や子どもや高齢者の問題も同じように考えることが出来ます。
これぞれの問題は「個性」だけでは片づけられない。
「個性」論は「自己責任論」に通じます。
一人一人には権利があり、それを保障する社会的責務が、それぞれの自治体や国にあるのです。
障害者も女性も高齢者も子ども笑顔で暮らせる社会と繋がってきます。
山本さんには、私の積年の疑問に答えていただきました。ありがとうございました。
そして、私が大学時代、障害者問題を通じて「発達保障論」に出会った原点に立ち返ることが出来ました。
一人一人が笑顔で暮らせる社会を目指して、今私に与えられている仕事の中で、精一杯、役割を発揮していきたいと思いました。
障害者問題について、皆さんのご意見をお聞かせ下さい。
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