議員日誌

映画「沈黙-サイレンス-」

 マーチン・スコセッシ監督の映画「沈黙-サイレンス-」を観ました。

 原作は、遠藤周作さんの同名小説です。

 舞台は江戸時代初期。キリシタン禁制の元で、信者が拷問や踏絵などで棄教を迫られる時代です。

 棄教した信者の中には、イエズス会日本管区の責任者を務めた神父もいました。

 映画のパンフレットの中に、遠藤周作さんが書かれた文章があります。

 「切支丹時代に自分の関心の足がかりを向けた私はすぐ、また深い失望を味わわなければならなかった。(中略)もちろん強かった人、殉教者については数多くの伝記や資料が我々の手に残されている。これらの人々の崇高な行為にたいして教会も賛美を惜しまぬからである。だが、弱者-殉教者になれなかった者、おのが肉体の弱さから拷問や死の恐怖に屈服した者についてはこれら切支丹の文献はほとんど語っていない。(中略)だが弱者たちもまた我々と同じ人間なのだ。彼等がそれまで自分の理想tしていたものを、この世でもっとも善く、美しいと思っていたものを裏切った時、泪を流さなかったとどうして言えよう。その悲しみや苦しみに対して小説家である私は無関心ではいられなかった。彼等が転んだあとも、ひたすら歪んだ指をあわせ、言葉にならぬ祈りを唱えたとすれば、私の頬にも泪が流れるのである。私は彼等を沈黙の灰の底に、永久に消してしまいたくはなかった。彼等をふたたびその灰のなかかなら生きかえらせ、歩かせ、その声をきくことは-それは文学者だけができることであり、文学とはまた、そういうものだと言う気がしたのである。」

 スコセッシ監督は、インタビューで「沈黙」を映画化する意義について次のように語っています。

 「人々の信仰のあり方が大きく変わり、それを疑うようになり、宗教的な組織や施設にも、おそらくは懐疑の目が向けられている、今の世界だからこそです。その中では信仰心も変わるのかもしれません。だから、このような映画を作り、世に送り出すことで、人々に何かを考えさせる機会になるかもしれません。あるいは、この物欲にまみれた世界では、忙しすぎて誰も目もくれなかったことを、再び差し出せるかもしれません。」と語っています。

 スコッセッシ監督は、遠藤周作「沈黙」の英語版の序文で次のように語っています。

 「キリスト教は信仰に基づいていますが、その歴史を研究していくと、信仰が栄えるためには、常に大きな困難を伴いながら、何度も繰り返し順応しなければならなかったことが分かります。これはパラドックスであり、信仰と懐疑は著しく対照なうえ、ひどく痛みを伴うものでもあります。それでも、この二つは関連して起こると思います。一方がもう一方を育てるからです。懐疑は大いになる子ども区につながるかもしれないが、本物の信仰、永続的な信仰と共存した場合、最も喜ばしい意味の連帯で終わることが可能です。確信から懐疑へ、孤独へ、そして連帯へというこの困難で逆説的な推移こそ、遠藤がとても良く理解していることです」

 私は仏教を学び始めたばかりの者です。信仰に「確信から懐疑へ、孤独へ、そして連帯へ」という推移があるということを今、理解することは出来ませんが、そのような推移を辿るならば、今の世界にとって意義あるものだと思えました。

 宗教が世の中をよりよいものにするための連帯への一助になれるという光をこの映画から見いだした思いがします。

 再度、原作を読み、理解を深めていきたいと思います。

 また、スコッセッシ監督作品の観ていきたいと思います。

 更に、「沈黙」の舞台となった長崎県に、開館した「遠藤周作文学館」に行ってみたいと思います。

 とにもかくんも信教の自由が保障された憲法も意味をこの映画で噛みしめています。

 

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