議員日誌

人生の踏み絵

 没後21年となる遠藤周作さんの講演集「人生の踏絵」が発刊され、今読んでいます。

 最初の章「人生にも踏絵があるのだから 『沈黙』が出来るまで」は、1966年6月に紀伊国屋ホールでの講演が収録されたものです。

 1613年にキリスト教禁止令が出され、フェレイラと司祭は、潜伏司祭として捕まってしまう1633年まで布教を続けていました。

 フェラレイ司祭は、穴吊りなどの拷問を受け改宗をしたとされ、沢野中庵という日本名で後年を生きた人物です。

 「沈黙」は「フェレイラを捜しに来た若い司祭がその踏絵を踏むまでの過程を書いたもの」と遠藤さんは述べています。

 その上で、遠藤さんは、「キリシタン時代とか踏絵とか、自分たちにとってははるか遠い時代のように思っていたけれども、その小説を読んでいいくうちに、私たち一人ひとりにも『時代の踏絵』、『生活の踏絵』、『人生の踏絵』があったことがわかりました、と。そんな手紙を読んで、なるほど、その通りだと思い至りました。私のように戦争中に青年時代を送った人間にとっては、自分の夢とか、美しいものに対する憧れとか、こういう生き方をしたいという希望は、心ならずも当時の政治・社会の情勢のためにねじ伏せて生きなければならなかった。いわば、それが私たちの時代の踏絵だったわけです。」と述べています。

 日本共産党第27回大会報告で志位委員長は、「2007年、暗黒政治による弾圧に抗して不屈に反戦平和を貫いた宮本顕治元議長が死亡したさい、評論家の加藤周一氏は、『宮本さんは反戦によって日本人の名誉を救った』という談話を寄せてくださいました。この時期の党のたたかいは、一人日本共産党だけのものではなくて、日本国民全体の財産と言ってもよいのではないでしょうか。」と述べています。

 戦前は、戦争に反対するものは人に非ずという「踏絵」がありました。

 「共謀罪」の国会提出の動きを見ると、再び政治が国民に「踏絵」を踏まそうとしているのだと思えてしまいます。

 「自分の夢とか、美しものに対する憧れとか、こういう生き方をしたいという希望」が自由に言え、実現できる社会を維持して生きたいと思います。

 日本国憲法の平和的民主的条項が守られる社会を維持していきたいと遠藤周作さんの50年前の講演を読んで痛感しました。

 映画「沈黙」早く劇場で観たいと思う今日この頃です。

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