引き続き、政治学者・中島岳志さんと、宗教学者・島薗進さんの「愛国と信仰の構造-全体主義はよみがえるのか」を読んでいます。
「国家神道に呑み込まれた戦前の諸宗教」は大いに勉強になりました。
私が総代として参加している浄土真宗本願寺派の大谷光淳門主は、昨年7月3日に「異なる価値を認め合う社会へ」とする談話の中で「本願寺教団が戦争の遂行に協力したことも、決して忘れてはなりません。」と述べています。
昨年11月6日に発表された全日本仏教会の「戦後70年目の年にあたって-非戦決議-」とする見解の中に「戦時中、教団や僧侶の中には非戦をつらぬいた者もありましたが、多くは戦時体制に呑み込まれ、追従し、人類としてもっとも愚かな行為である戦争に加担・協力してきました。」とあります。
「伝統的宗教はなぜ国家神道に呑み込まれていったのか」がこの本に詳しく述べられています。
具体的には、1870年に下された「大教宣布の詔」によって、伝統的宗教が国家神道に呑み込まれていったと島薗さんは述べています。
「『大教宣布の詔』の『大教』とは、私たちが現在、国家神道と呼ぶものに対応する言葉です。この文章の中に『治教』という言葉が出てきます。」「注意しなければならないのは、『大教』や『治教』、あるいは『教』は、『宗教』を意味していないということです。『教』は、天皇を中心とした政治的精神秩序の軸として公的な次元で機能するものであって、下々の『宗教』とは別のものなのです。つまり、他の宗教とは異なる『治める教え』ということです。」「つまり、近代西欧の制度にならって政教分離はしているが、国家神道については国家に属するものである、他の宗教とは次元が違うのだ、ということです。この二重構造の中で、国家神道は諸宗教を組み込んでその上に乗っかることができるように、明治維新の時にすでに構想されていた。」
諸宗教が国家神道の下に置かれる形で戦時体制に呑み込まれていった根本の仕組みをこの本から知ることができました。
全日本仏教会の「非戦決議」を更に引用しましょう。
「仏陀の教えに照らして、こうした過去に慚愧とともに真摯に向き合い、犠牲になられたお一人お一人の願いを受けとめて、二度と戦争をしない、させないという思いを強く、新たにするものであります。」
特定の宗教を特別のものとして扱い、他の宗教を呑み込んで戦争に突入していった歴史を私たちは忘れてはならないと思います。
そして、今、その事を繰り返してはならないと思います。
二度と戦争をしない、させないために「愛国と信仰の構造」は多くの事を教えてくれる本です。
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