学生ら15人が亡くなった1月15日の軽井沢スキーバス転落事故から1カ月が経過しました。
今朝のしんぶん赤旗日刊紙には、31年前に学生ら25人が死亡した日本福祉大学スキーバス転落事故で、長女結可(ゆか)さん(当時19歳)を亡くした山形弘喜さん(75)さん、孝子さん(75)夫婦のインタビューが掲載されていました。
31年前、知らせを受け、弘喜さんたちは友人の運転で現場に向かいました。棺に入った遺体はお寺の本堂に安置されていました。
「遺体はみんな凍っていたね。泣き崩れるほかなかったですよ」と弘喜さん。
「傷もないきれいな姿でした。即死でしょうね。私はその時は、涙も出なかった。子どもが先に逝くなんて・・・。代わってやれるならやりたいよね」と孝子さんはしんみりと話します。
本ブログで繰り返し告白してきたように、私は、1985年1月28日5時45分ごろ、国道19号を走行していた三重交通バスが、長野市の犀川(さいがわ)の大安寺橋付近で、水深4メートル、水温4度の極寒のダム湖に転落した日本福祉スキーバス転落事故の生き残りです。
バスは、体育科のスキー授業の一環で北志賀高原に向かっていました。バスは3台で連ねて走っており、3台目のバスが犀川に転落。
私は、2台目のバスに乗っており、一命をとりとめました。
山形さん夫妻が向かわれた「棺が安置されたお寺」での仮通夜には、私たち生存者の学生たちも参列しました。
石の階段の上にお寺はありました。参道の両側にマスコミがひしめき合い、フラッシュのたかれる中、本堂に向かった記憶が蘇ります。
本堂には、25個の棺が並べられています。本堂の中には、遺族の方々と生き残った私たち学生。
本堂の中と外を遮断するものは、障子しかありません。
一台のカメラが本堂内を撮影しようと障子を破りました。
その時、当時の私たちと同年代だったと思います。今思い起こせば、亡くなった学生の兄弟の方だったのでしょうか。
遺族と思われる若い男性が「カメラのレンズが覗く破れた障子」に向かって「おまえらそれでも人間か!」と叫ばれた言葉を昨日のように思い起こします。
1985年1月28日の夜、事故現場付近のお寺で営まれた仮通夜に、山形さん夫婦もいらしゃったのだと思うと、新聞を読む眼が潤みます。
山形さん夫婦は、結可さんが生前書いた文章を「結可19歳」という本にまとめます。
残念ながら、その本を私は持っていません。機会があれば、山形さんご夫婦に連絡を取ってみたたいとも思います。
孝子さは憤ります。
「30年もたつのに切なくてあの子の本をひろげられないんです。悪いのは2000年の規制緩和でしょう。安かろう悪かろうで、どんどん(バス会社が)参入してくる。国はまったく教訓をいかしていない」
弘喜さんは「運転手が悪い、会社が悪いといたって一番悪いのは規制緩和をやった自公政権だ。60歳を過ぎた人を雇って安くあげようなんてとんでもない。遺族の親たちは40代でしょう。これから重い一生を背負うことになる」と訴えます。
軽井沢スキーバス転落事故から1カ月。
この事故を他人事として受け流すことが出来ません。
政府には、事故が二度と起きないよう抜本的な規制の強化強く求めたいと思います。
軽井沢スキーバス転落事故から1カ月。皆さんはこの事故をどのように思われますか。
ご意見をお聞かせ下さい。
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