議員日誌

大谷光真前門主が捉える原発の非倫理性

 先日、本願寺山口別院で浄土真宗本願寺派総合研究所副所長の藤丸智雄さんを講師とした学習会に参加しました。

 藤丸さんが編者を務められた「本願寺白熱教室」の中に、東京大学名誉教授である島薗進さんが書かれた「原発の是非の倫理的問いと宗教界の声」と題する論文があります。

 今日は、島薗さんの論文に紹介されている「大谷光真前門主が捉える原発の非倫理性」について紹介したいと思います。

 大谷光真前門主の著書「いまを生かされて」の「あとがき」に「原子力発電に対する私の考え」があります。

 大谷前門主は、原子力発電所には未解決の問題がいくつかあることを指摘しています。

 「第一に、現在の科学技術では、放射性廃棄物の無害化ができないことです。」

 「第二に、一度大きな事故が起これば、対処できなくなる可能性があることです。」

 「第三に、原子力発電所を運転するためには、平常時でも、一定数の労働者の被爆が避けられません。」

 大谷前門主は、その上で、「阿弥陀如来に願われる『われら』として」として次のように述べておられます。

 「人間には、限りない欲望があります。時代を遡るほど、外部からの物理的・社会的制約が大きかったため、おのずから欲望に歯止めがかかりました。しかし、現代においては、知能がはたらき、さまざまな制約が取り除かれ、欲望がそのまま実現するようになりました。

 それでも人間の知能は不完全であり、欲望の実現から生じる負の結果を十分制御できません。その極端なものが核エネルギーの利用でしょう。いま必要かどうかだけで物事を決めず、将来の人類はじめ生物の生存と調和することができるかどうかを考慮しなかれば、人類の将来はないと思います。欲望をなくすのではなく、調和できる方向に導くことこそが課題です。

 そのためには、日常生活の損得を超えた価値観が必要になります。仏教の目指すさとり、すなわち仏に成ることはそのヒントになると思います。」

 島薗東大名誉教授は「大谷氏は浄土真宗本願寺派の門主という地位を意識しながらも、一人の仏教者として原発の倫理的問題はどこにあるかを明示し、それを克服していくための倫理性が仏教、広く言えば宗教に求められる所以を述べている。」と書いています。

 島薗教授は「政治が平和やいのちを脅かすような方向に向かっているときに、宗教界が公共空間にその声を響かせることができるかどうかは、その社会の精神文化の力量を示すものとなるだろう。倫理的な問いが関わる重要な問題に、宗教的な次元を踏まえた声が聞こえないということは、市民生活にとって大きな欠落である。」とも述べています。

 島薗教授は、「昭和初期の日本で、国が戦争の道へと進むことが見えていながら宗教界はそれに抵抗することなく国策への協力の姿勢をとる傾向が目立った。」歴史を踏まえ「原発をめぐる倫理的討議を深めようとする多声的な公共空間に、今後、ますます力ある宗教的な声が響くことを期待したい。」とこの論文を結んでいます。

 私は、大谷前門主の文章を学びながら、原発問題に対して、今後とも宗教界から多くの声があがることを期待する一人です。

 来年も3月26日に、上関原発を建てさせない県民大集会が山口市で行われます。

 今日は、この集会成功に向けて山陽小野田・宇部実行委員会の結成集会が市内で行われます。

 私は、政治に関わるものとして、そして、宗教に関わるものとして、この集会成功成功のために、今日の結成集会に参加する予定です。

 午後6時からシルバーふれあいセンターで行われる集会に一人でも多くの皆さんのご参加をお待ちしています。

 

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