本日、宇部市内で、長生炭鉱水没事故70周年犠牲者追悼集会が行われました。
最初に主催者を代表して「長生炭鉱の『水非常』を歴史に刻む会」の山口代表が「70周年の時が、真の歴史を紡ぎ出し、真の平和をつくり出す時となることを願って止みません」と挨拶を行いました。
長生炭鉱の『水非常』を歴史に刻む会山口代表
次に、長生炭鉱水没事故大韓民国遺族会の金会長は「今からでも日本政府は反省し、遺骨の発掘にも追悼碑建立にも積極的に先頭に立って一日も早い解決策をだすべきだ」と訴えました。
遺族を代表してあいさつをした金会長(右端)
次に、遺族の次男である全さんが、当時の状況を証言しました。全さんは、事故があった当時西岐波小学校5年生だったそうです。運動場からピーヤの方を見るとピーヤから水が溢れだしていたそうです。
坑口付近には、家族の「アイゴー(お父さん)」という叫びがこだましていました。全さん家族は、日本で終戦を迎えますが、社宅は追い出され、母親に安定した職はなく、苦労の連続でした。
「にんにく臭い」などという差別も受けたそうです。
終戦後、韓国に帰りますが、全さんは、学校にも行けず、山の小枝を集める仕事などで生きて来たといいます。
全さんは、「私は、県庁や市役所で様々な要望を行ってきたが、私たちの望む答えを聞いたことがない」と語ります。
私は行政に関わる一人として責任を痛感しました。山口県は遺族の声を国などの関係機関にこれまでどう伝えてきたのか調査することから始めたいと思いました。
全さんは、訥々と事故後の人生を語りました
次に、遺族の長女である尹さんが証言しました。
尹さんは、事故があった当時、6ヶ月の赤ちゃんでした。尹さんが、20才の時に母も亡くなり、日本を恨みながら暮らしてきたといいます。
現在は、尼として生活する尹さん。ある人との出会いで、昨年、70年ぶりに父の位牌と面会します。
尹さんは、父の位牌の前で1時間のお祈りをしたそうです。
尹さんは、「(長生炭鉱の歴史を刻む会の方々など)すばらしい日本人がいることを知った。過ちを認めることが出来る日本人であってほしい」と語りました。
私も戦後を生きる日本人の一人として、朝鮮半島の方々と友好関係を築く上で、知らなければならない歴史があることを痛感しました。
すばらしい日本人がいることを知ったと語る尹さん
長生炭鉱の歴史を描いた合唱「海の墓標」が歌われました。
『悪魔の飽食』をうたう東京合唱団と『海の墓標』をうたう山口合唱団が力強く歌いました。
歴史的事実を芸術作品として残すことの大切さを痛感しました。
長生炭鉱を題材にした「海の墓標」の合唱
来賓として辛駐広島大韓民国総領事があいさつを行いました。
大韓民国として長生炭鉱での被害を調査し2007年の報告書をまとめ、県や市、そして日本政府に誠実な対応を要請していることが報告されました。
1942年2月3日の事故から70年。183名の犠牲者の内、137名が朝鮮人の方でした。
犠牲者の多くは、日本の植民地政策のため強制連行された方々だったと思います。
この70年間、遺族の方々の要望に対して、日本政府がほとんど何も対応していないことの異常を痛感した追悼集会でした。
私も自らの役割を発揮して、遺族の想いを行政機関に届ける懸け橋になろうと決意を新たにしました。
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