議員日誌

厚狭高の北公舎と南公舎の統合について

 平成22年4月統合を目指して、厚狭高の北校舎と南校舎の統合が行われようとしています。それに向け今年度から特別教室棟の新築及び部室の解体がおこなれています。

 私は厚狭高同窓生ですが、地元に住んでいないものですから、住民の声を十分聞くこともないまま、状況をただ見守るだけでした。

 しかし、地元の党支部が北公舎と南公舎の統合の話を住民にしてみると、「知らなかった。」「駅から東に伸びる商店街がすたれるのが心配。」「南校舎の歴史の灯を消さないで。」など意見が相次ぎました。

 ついに、山陽小野田市議会でもこの問題が話題になろうとしています。

 厚狭高は、特異な歴史を持っています。南校舎の歴史は、明治6年にまで遡ります。毛利氏の末裔である毛利勅子さんが、船木に「船木女児小学」を興したのが厚狭高の南校舎の始まりです。明治41年に、現在の南校舎の場所に、改組された「県立徳基高等女学校」が移転され設置されました。大正12年には、更に改組され、県立厚狭高等女学校となりました。ですから南校舎は、136年を数える歴史があるのです。統合前に南校舎で学んだ卒業生は、4354人に及びます。

 ちなみに北校舎は、昭和16年に県立厚狭中学校が創立してからの歴史です。そして、昭和24年に、南校舎と北校舎が統合して県立厚狭高になりました。

 地元住民の方々が、「南校舎の歴史を守ってほしい。」と言われるのも頷けます。

 今日、私は、山田山陽小野田市議と下瀬元山陽町議とともに、北校舎で建設中の特別教室棟の建設現場を見学に行きました。

 現場は、下の写真のように幸い更地の状況でした。

 私は、現地に立って以下の対応が緊急に必要だと思いました。

 1、県教委は、長門地域で行ったような、地域住民を対象にした「意見を聴く会」を厚狭地区でも開催すべきではないか。

 2、地元住民の合意が出来るまで、当面、北校舎への特別教室棟の建設工事は、延期するべきではないか。

 県教委は、地元住民の方々の意見や山陽小野田市議会の意見を十二分に聞いて、厚狭高の北校舎と南校舎の統合を再検討すべきだと、私は、今日現地に立って感じました。

09.2.20 003.JPG

左の建物が武道場、右が教室棟。その間の部室が

解体されて、その後に、特別教室棟が建設されようと

しています。現在は、更地の状況でした。

 

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