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24日付、しんぶん赤旗「日曜版」が長生炭鉱の取組を見開き特集で報じました

 24日付、しんぶん赤旗日曜版は、長生炭鉱の坑口が開けられたことについて次のように報じました。
 「海底炭鉱の入り口=坑口が市民団体によって82年ぶりに開けられた長生炭鉱。その坑口前で先月、韓国と日本の遺族らを招いて追悼集会が行われました。戦時中の水没事故で犠牲になった183人の尊厳回復へー。遺骨収集に向けた調査が始動しました。『アボジ!チェガワッスムニダ』(お父さん!私が来ましたよ)坑口を前にひざまずいた全錫虎(チョン・ソッコ)さん(92)。海底に遺骨が残る亡き父に語りかけると、悲しみで顔をゆがめました。『長生炭鉱の水非常を歴史に刻む会』が主催した『坑口あけたぞ!82年の闇に光を入れる集会』(10月26日)に韓国から参加し、チェサ(祭祀)をとり行いました。水没事故は1942年2月3日午前に起き、韓国人136人、日本人47人が犠牲になりました。全さんの父、全聖道(チョン・ソンド)さん=当時40歳=もその一人です。坑口は事故直後にふさがれました。小学5年生だった全さんは『毎日ここに来て泣いていた』といいます。残された一家に補償はなく、社宅からも出されました。友人の家の馬屋で苦しい生活を送りながら、母は子ども5人を養いました。帰国後も苦労の連続でした。14歳で住み込み奉公に出た全さんは親元から学校に行く友達を見て、山で木を拾う自分を惨めに思いました。当時について証言しています、『私は泣いて泣いて泣きながら父を恨みました。でも父には何の罪もないのです。悪いのは日本という国です。私たちから平和を奪い、恨みだけを残したのです』(2011年、刻む会証言・資料集1)追悼集会には韓国から来日した遺族14人を含む約250人が参加。追悼後、全さんと、同じく父を亡くした常西勝彦さん(82)=愛知県=が固く握手を交わす姿がありました。『全さんが私に握手を求めてくれて・・・』。こらえていた涙があふれました。常西さんは追悼の儀の(主役)は韓国の遺族との思いがありました。同じ場で日本人の自分が父を追悼することに申し訳なさを感じていたのです。『日本人も分け隔てなく(追悼を)やってくださった。うれしすぎて涙をがまんしきれん』父の初忠さんは27歳で亡くなりました。事故の4日後に生まれた常西さん。『私はおやじの手も触っていないし、おやじに抱いてもらっておりません』その後、父からの祖父母に育てられ、生きるため15歳で働き始めました。父がどこの炭鉱で亡くなったのか不明のまま、思いばかりを募らせました。長生炭鉱と判明したのは3年前。息子の朝彦さん(57)がネット上で犠牲者名簿を見つけたのです。姿を現した坑口を前に、感動でしばしぼうぜんとしたという常西さん親子。『ここに入っていけば、手の届くところにおじいさんがいるんだと思った』(朝彦さん)。『おやじはこの冷たい水のなかで82年間、一生懸命(外に出たい)と思っとるんじゃないか。一刻も早く外に出してやりたいです』(勝彦さん)追悼集会後、韓国遺族会の楊玄(ヤン・ヒョン)会長(76)は記者団に『坑口を開けて遺骨を収集することは、日本政府がやるべきことだ』と強調。『高さ1・6㍍、横2・2㍍の坑口を毎日、出入りしていたと考えると胸がいっぱいになる』と語りました。
私は、9月県議会で、県は、宇部市と、厚労省人道調査室に出向き、国が犠牲者の遺骨収集に取り組むよう要請すべきと質しました。
 道免観光スポーツ文化部長は「宇部市と情報を共有しながら、適切な形で要望を伝える」と答えました。現時点で、確認したところ県は国と電話で情報交換は行っているが、遺骨収集問題などについて、国に直接要望はしていないとのことでした。県が適切な形で要望を国に伝えるよう求めます。11月県議会で質問する時には、議会答弁通り「適切な形で国に要望を伝えた」との答弁を受けることができるように、県に求めていきたいと思います。
 長生炭鉱の問題について皆さんのご意見をお聞かせください。

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