議員日誌

東日本大震災から9年

 3月11日に、東日本大震災から9年が経過しました。

 毎年、9年前の事をブログに書いているようでもありますが、9年前の3月11日は忘れることができません。

 私は、県議として3期目を終える2月議会の最終日が3月11日でした。

 議会が閉会して、当時の二井知事も参加されて、県議と執行部の方々との茶話会が開かれている最中に、東日本大震災が発生しました。

 県議として4期目に入ったばかりの連休明けの6月県議会前に、県議団の木佐木県議と私と吉田事務局長の3人で、山口県を出発して車で、岩手県宮古市に向かったことを昨日のように思い起こします。

 宮古市は、東日本大震災の中でも最大級の高さの津波が襲った場所です。田老地区には、当時で最大級の高さの堤防があったのですが、やすやすと津波は堤防を越えて、堤防の内側の街をなぎ倒しました。堤防の上から見た田老地区の光景を忘れることは出来ません。

 宮古市に数日間滞在した後、宮古市から釜石市まで、海岸線の被災地を移動した風景も忘れることが出来ません。

 町長さんをはじめ多くの職員が庁舎内で亡くなった大槌町の役場の前に立ったことも忘れることが出来ません。

 あたらめて、犠牲となられた方々に哀悼の意を表するものです。

 3月12日の毎日新聞には、ロッテに入団した佐々木投手の記事が掲載されていました。

 「佐々木投手は当時小学校3年生。岩手県陸前高田市に祖父母、両親と3兄弟で生活していた。2011年3月11日午後2時46分、同市高田小で授業を受けていると、突然激しい揺れに襲われた。しばらくすると海から1キロ以上離れた学校にも津波が迫るのが見え、慌てて高台に駆け上がって難を逃れたという。しかし自宅は流され、大好きな野球を手ほどきしてくれた父功太さん(当時37歳)と祖父母を失った。一家の大黒柱を亡くし、母陽子さんと3兄弟はしばらく市内の老人ホームで避難生活を余儀なくされた。温かい食事や風呂、キャッチボールする広場も道具もない。全国から届いた物資、ボランティアの支援を受け『今まであったものはあって当たり前ではなかった』と痛感した。小学校4年生になると、陽子さんの親族がいる同県大船渡へと転居した。中学時代には、硬式野球部のエースとして140キロを超える速球を投げ、県内外の強豪高校にもその名を知られるほどになった。しかし、佐々木投手は苦しい時期をともに過ごした仲間と甲子園を目指し、県立大船渡高へ進んだ。震災で保護者を亡くした生徒や学生を支援する『毎日希望奨学金』を得て、白球を追い続けた。(中略)今年1月大船渡を離れ、改めて地元の素晴らしさ、ありがたみを感じたという。今も地域に、人々の心に震災の傷は残る。『風化させたくない。プロ野球選手として初めてこの日を迎えて、これからは発信していかなければならないと感じた』。決意を帯びたまなざして語った。」

 佐々木投手を応援していこうと思いました。

 昨夜は、NHKで震災から9年目の特集番組「“奇跡”の子と呼ばれて~釜石 震災9年~」を放映していました。

 NHKのホームページから紹介記事を引用します。

 「去年、ラグビーW杯の会場となった岩手県釜石市。会場のスタジアムが建てられた場所は、「奇跡」と呼ばれた出来事の現場だった。9年前までそこに立っていたのは小中学校。東日本大震災の津波が迫る中、児童生徒が自主避難で命を守り「釜石の奇跡」と讃えられた。しかし、町では多くの人が犠牲となり、家族や友人を亡くす悲劇もあった。奇跡と悲劇の狭間で複雑な思いを抱えて生きてきた彼らの震災9年、そして今を見つめる。」

 今年20歳を向けた青年。私の次男と同じ年です。

 20歳の青年が生死を分けた9年前を振り返ります。

 ある青年が、亡くなった同級生のおじいさんと再会するシーンに涙しました。

 9年前の悲劇と向き合い、前を向いて歩こうとしている佐々木投手をはじめとする青年の姿に多くのことを学びました。

 被災地への支援を継続させる、原発をなくす、災害に強い地域をつくる・・・

 県議として、学んだことをこれからの活動に生かしたいと思います。

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