議員日誌

美東秋芳木喰仏探訪は続く

 15日、三度目の美祢市木喰仏探訪を行いました。
 まず、訪れたのは、美祢市美東町太田の福永家の木喰仏です。
 釈迦如来坐像です。

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 昭和40年代に木喰仏と分かった釈迦如来像

 光背には、木喰直筆の文字が書かれてありました。

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 光背には、寛政9年9月4日に完成したとある

 美東町史に、光背の文字はこうだとあります。
 「心願 帰命頂礼法身阿宇 一念仏法至心信広説普通誓願 事懺悔衆生法門度法界金剛 諸仏同一躰三世浄妙自在無家木喰 五行常観心 日州児湯郡府中国分むら 寛政九巳年九月四日二成就ス 日本廻国八宗一見 五智山国分寺インキョ 中興開山 木喰五行菩薩 八十歳(花押)正作釈迦如来 コロヲサツクル」
 木喰は、美祢市美東町絵堂北河内を9月7日に立ったとあります。ですから、釈迦如来座像は、北河内を出発する二日前に出来上がったことになります。
 内田伸著「防長の微笑仏」に「福永家は先々代のとき本家から分かれて独立したが、その時、家に仏壇がなくてはということで、旦那寺の絵堂の法香院からこの像もらったといわれる。この法香院は江戸時代には法然寺といい、北河内の薬師堂はその抱えであった。それで木喰が薬師堂でつくった釈迦如来像を同寺に蔵していたのである。」とあります。
 お会いした福永家の御祖母さんは、「昭和45年に山口県立博物館で木喰仏を集めた展覧会後に、県立博物館の方に見ていただいて木喰仏であることが判明した」と話されました。穏やかな顔の表情は間違いなく木喰仏そのものでした。
 次に絵堂北河内公会堂の日光菩薩立像と月光菩薩立像を見学しました。

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 左手に日輪を持っている日光菩薩立像

 案内していただいた近所の横山繁美さんは、「タブ材の一本造りである。当時、ここに薬師堂がありタブの巨木があったと言われている。今もタブの木がある」と話されました。確かに公会堂の脇に、巨木といっていいタブの木がありました。
 美東町史に「日光は、左手に日輪を奉持し、右手で左袖を執る。月光は右手に月輪を奉持し、左手で右袖を執る。」とあります。正に左右対称の像です。

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 右手に月輪を持っている月光菩薩立像

 日光が男性、月光が女性の仏像に見えました。
 内田伸著「防長の微笑仏」には「背面に銘があったのであるが、今は厚く彩色がしてあるので読めない。しかし下方の塗料の一部が剥落して、わずかに月日などのところがすこし見える。日光の方は、・・・月廿三成就ス・・・ 月光の方は・・・廿・・日成就スなどの文字がわかる。これをみると、この両像は、薬師堂への滞在中の木喰が八月二十三日頃から月末にかけて彫ったものであると考えられる」と書いてあります。
 現在、二体の仏像は、北河内集会所内に安置されています。公民館の前に、河内社と書かれた鳥居がありました。横山さんは「北河内地区では古くからあった神楽を復活させた」と話されました。
 横山さんは、「この場所には、神社とともに薬師堂もあり、今でもお祭りを行っている」とも話をされていました。
 内田さんの本には、北河内で書いた木喰の歌が紹介されています。
 木喰に皆だまされて北かわち
 行ももどるも一つはしはし
 昨日、最後に訪ねたのは、美祢市秋芳町福王田村上家木喰仏です。
 奥様の村上節子さんにお話しをお聞きすることが出来ました。
 仏像は聖観音大士像です。

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    福王田村上家にある聖観音大士像

 秋芳町史には「村上家はもと大津郡士族の苗籍をついでいるので、大津郡より移設されたものと推定される」とあります。
 仏像は、胸部から台座にかけて全面に虫損があります。村上さんは「荒神様に長い間安置されていたせいで虫損となった。」と話されました。
 しかし、上半身は木喰仏の特徴をしっかり残していました。
 総高60センチの小仏像ならではの木喰による顔面などの丁寧な彫を見ることが出来ました。
 背面には、光背を止める金具が二つ付いていました。当時は光背があったのでしょうが、現在は残っていません。
 この像と一緒に幅13センチ縦27センチの小板が保存されていました。

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 小板には、寛政9年12月4日に完成したとある

 新見亮助・片山徳五郎著「山口県下の木喰仏」に小板も文字が復元されています。
「心願 寛政九巳年一二月四日成就ス 仏法は行くももどるも一ト船に 大じ大日のちからなりけり 国王国中 梵字 父母安楽 聖観世音大士 寿 日本百万千体之内 日本廻国発送一見(花押)正作天一自在法門 八十才 木喰五行菩薩」
 寛政九年一二月四日成就とあります。同書には、「この像は日付からして、当地での遺作ではなく、奈古の浜の法積寺滞在中の作と思われる。」とあります。
 村上さんは「昔から酢屋を営んでおり、萩市奈古で作られた木喰仏を購入したのだろう」と話されていました。
 木喰が残した「御宿帳」に、この年の十一月二十六日から十二月十一日まで、「ナゴノハマ法積寺」に居たことが記されています。
 今日までに美祢市にある十一体の木喰仏を見学しました。
 秋芳や美東の人々の優しさを改めて感じる美祢市木喰仏探訪となりました。
 快く木喰仏を見せていただいた皆さんに感謝いたします。

 私がこれまで目にした資料の中で、県内の木喰仏について、完成順に整理されたものが二つあります。

 一つは、防府市教育委員会が昭和60年に刊行された「防府の木喰仏」。

 52体とありますが、これには、福王田村上家の木喰仏が含まれていません。

 二つ目は、昭和59年に刊行された木喰会編集の「木喰仏巡礼」です。

 この中に、木喰上人生家13代枝目として木喰研究にはげむ伊藤勇さんが整理された木喰仏一覧があります。

 これには、山口県52体とあります。しかし、これには、村上家の木喰仏は含まれるが、「防府の木喰仏」にある防府市善門寺の荒神立像は含まれていません。

 二つの一覧に共通する51体は、仏像の名称の違いが寺院の名前の違いは少々ありますが、ほぼ一致します。

 つまり、これまで確認された県内の木喰仏は53体ではないかというのが私の現在までの結論です。

 先に書いたように、私は、美祢市内11の木喰仏を今日までに全てみました。

 私の手元にある文献を私なりに整理し、山口県の木喰仏をわかる範囲で完成順にまとめてみたいと思います。

 その文章を全国木喰研究会の機関誌「微笑仏」に発表できるようにまとめたいと思っています。

 その整理が終わったら、次は、萩市周辺の木喰仏を取材したいと思っています。

 50代の早い時期に、県内の木喰仏53体全てを取材できたらと思っています。

 県内の木喰仏についての情報がありましたら引き続きお教え下さい。

 

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