堀川惠子さんの「教誨師」を約1年前、あるお寺のご住職の居間の本棚で拝見しました。
待ち時間のような間に、「教誨師」を斜め読みし、惹かれました。
手に入れようと思いながら、日が経ち、先日、書店を訪ねると、文庫版が出版されていました。
本書の解説をされた石塚伸一龍谷大学教授の言葉から教誨の意味を紹介します。
「教誨とは、受刑者等が改善更生し、社会に復帰することを支援する仕事です。」
本書の主人公である教誨師の渡邉普相さんは、東京拘置所で死刑囚を相手に教誨を務められた方です。
石塚さんは、「死刑の教誨は特殊です。『生きていく』ここおを説くはずの教誨師が、『死んでいく』ことを手伝うことになるからです。」と書いています。
「教誨師」で最初に語られているのは、山本勝美(仮名)死刑囚との邂逅です。
山本死刑囚は、看守を殺して脱獄した罪で死刑が確定した人物です。
山本死刑囚は、渡邉教誨師が紹介した「歎異抄」に出会います。
歎異抄には「善人なをもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」とあります。
現代語訳は「善人でさえ往生するのだから、ましてや悪人はいうまでもないと、親鸞聖人は仰せになりました」です。
山本死刑囚の感動を本書はこう書いています。
「親鸞聖人は悪人を蔑むどころか、悪人こそ救われると説いていた。人の命を奪った自分は地獄に落ちる、宗教に救われるわけはないと半ばふてくされていた山本は、あくる日の面接で『歎異抄』をふりかさして渡邉に詰め寄った。『先生、どうしてこれまで私にこれを教えて下さらなかったのですか!悪人でも救われると書いてあるじゃないですか!私のような人殺しも救われると書いてあります!』」
本書の解説で、石塚教授が「法の世界においても『悪意とは知ること。善意とは知らざること。自らの罪業に気づかぬ人は善人。己の罪深さを知りながら懸命に生きるのが悪人』。だから、『善人正機す。いわんや悪人をや』ということになります。わたしは、この『遺言書』を宗教家や法律の研究者や実務家だけでなく、将来、裁判員になるであろう多くの市民のみなさんに読んでいただきたい。いま、この国で、みなさんの平和と安全を護るために、こんなに多くの人たちが悩み苦しんでいます。わたしたちは、この現実の幾ばくかでも知り、悪人とならねばなりません、それが、渡邉先生がわたしたちに手渡していった荷物だからです。」と書いています。
仏教の勉強は始めて約3年になります。
「歎異抄」の「悪人正機」については何度か学んできました。
この本を読む中で、「悪人正機」の理解が中途半端なものであったことを思い知らされました。
改めて、「悪人正機」について深く学ぶ機会となりました。
引き続き、堀川惠子さんの「教誨師」を読み進め、多くのことを学びたいと思います。
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