引き続き、中島晃著「仏教と歴史に関する19の断想」を読んでいます。
この中の「国家を超えて」はとても興味深い内容でした。
中島さんは、「国家神道」について次のように書いています。
「日本は、神国であり、神風が吹くから、日本が負けることはないといって、国民を戦争に駆り立てた、戦前、戦中における国家神道のはたした役割はきびしく問われる必要がある。勿論、天皇が紙であることを否定する宗教が、不敬罪や治安維持法などによって、徹底的に弾圧された歴史も忘れてはならないことです。戦後、天皇は神ではないとされ、国家神道は否定された。しかし、祭祀・儀礼と協議を分離し、前者は宗教ではないという特異な宗教観は戦後もそのまま受けつがれた。」
中島さんは、河上肇が1911年に書いた「日本独特の国家主義」を引用しています。( )内は、中島さんの現代語訳です。
「日本人の眼中の宇宙心中最も高貴なるものは国家を措いて他あらず。故に日本人は国家のために何事物事をも犠牲にするといえども、何事何物のためにも国家を犠牲とするを肯んぜず」(日本人は国家のためにはすべてを犠牲にできるけれども、国家を超えたもの、国家よりも大きな価値をもつもののために国家を犠牲にすることはできない)
「ゆえに学者はその心理を国家に犠牲し、僧侶はその信仰を国家に犠牲す。これすなわち日本に大思想家出でず大宗教家出でざる所以なり」
その上で、中島さんは、次のように語っています。
「いま私たちに求められているのは、国家を超えた普遍的な価値を語ることのできる宗教や思想を自覚的に追求することではないだろうか。そのことを抜きにして、国家神道を正当化するために生み出された特異な宗教観を克服することはできないように思われる。」
今日や韓国や沖縄に対する聞くに堪えないヘイトスピーチが生まれる背景もこの辺りにあるように私は感じます。
私は、国家神道の本質に対する指摘とそれを乗り越える問題提起に、目の前の靄が晴れたような気持ちになりました。
中島さんは、この章の最後にこう書いています。
「集団的自衛権をめぐる議論の背景には、再び国家主義が台頭してきているように思われる。そうすると、いま、法然・親鸞に学びつつ、彼らの切り開いた普遍的な宗教をめざす道を受けつぐことこそ、現在に生きる者のつとめであり、それは河上肇の100年余り前の問題提起にこたえる道ではないだろうか。」
中島さんは、「普遍的な宗教をめざす道」についてこう書いています。
「日本仏教における普遍的宗教をめざす道は、すべての人間を一切排除することなく、平等に救済することをめざして、本願念仏を創始した法然によって切り開かれ、親鸞によって受けつがれた。」
今日の国家主義を乗り越え、平和で平等な社会をつくるためにも、普遍的宗教をめざす道を学んでいこうと思いました。
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