重松清さんの「赤ヘル1975」を読んでいます。
1975年は、広島東洋カープが「赤ヘル」と呼ばれるユニホームにイメージチェンジを図った年です。
1975年は、広島市へ原爆が投下されて30年が経過した年です。
広島市民球場近くの中学校に東京からマナブが転校してきます。
マナブを取り巻く広島の中学生と広島東洋カープの軌跡を描いた物語です。
皆さんは、もうご承知の通り、1975年、広島東洋カープは、球団創立25年目で初めてのリーグ優勝を達成しました。
日本シリーズは阪急ブレーブスと対戦しています。
私は、1975年は、小学校6年生。赤い縁で赤いHのマークの付いた阪急ブレーブスの帽子を被って学校に行っていました。
阪急ブレーブスは上田監督。エースはアンダースローの山田。福本という足の速いバッターに憧れていました。
日本シリーズは、当時、平日でデイゲームだったように記憶しています。
学校から帰って、日本シリーズで阪急を応援していたあの頃を思い出します。
対戦相手が、広島カープだったんですね。
というように、この小説の主人公は、私とほぼ同世代で、野球少年だった私は、一気に、1975年の時代にタイムスリップしてしまいました。
今年は、広島東洋カープが25年ぶりにリーグ優勝し、日本シリーズは、日本ハムと激闘を繰り広げました。
広島の25年ぶりのリーグ優勝、黒田投手の引退。日本ハムの二刀流の大谷選手の活躍。
などなど今年の日本シリーズに話題は尽きません。スポーツの話題には敏感な中高生の息子たちも、今年の日本シリーズは興味深々。
家族で、今年の日本シリーズは殆ど観戦しました。
日本ハムが打撃で、広島を少し上回ったけ結果、日本ハムが日本一となりました。
申し合わせた訳ではありませんが、家族はみんな広島を応援していました。
さて、マナブと同じクラスの地元の酒屋の倅、ヤスの父親も原爆の後遺症で亡くなりました。
同じクラスの沢口さんのおじいさんも、原爆の後遺症に苦しんでいます。
「赤ヘル1975年」に以下の文章があります。
「確かに今年は1975年で、1945年の原爆投下からちょうど30年にあたる。それは広島に引っ越してくる前から知っていた。マナブ自身を基準にすれば、自分が生まれるずっと前の出来事ということになる。けれど、親まで含めると、原爆は勝征さん(マナブの父)が8歳の頃に落とされた計算になって、急にごく最近のことのように思えてくる。」
「勝征さんは昭和12年に生まれた。日本と中国が戦争を始めた年だ。『勝征』という名前にも、戦争がかかわっているのだろう。親や親戚の願いが込められているのかも知れない。」
私の母は、昭和12年生まれ、マナブの父と同じ年です。名前は「克子」といいます。私の母の名前も戦争に関わっているのでしょう。
母と同年代の父の弟は「勝正」といいます。戦時中に生まれた方々に「勝」や「克」のつく名前が多いことが私の周辺からだけでも分かります。
つまり、私たちの世代(50過ぎ)は、親の世代(80前後)が戦争を経験しています。
実際に起こった70年前の戦争をリアルに後世に伝えることが出来る最後の世代と言えます。
私の祖母の妹である石川みち枝が先日亡くなりました。
彼女はあらつちの同人で歌人でした。
本ブログでも何度か紹介していますが、彼女の次の句を紹介します。
「おくり火に亡き夫偲び大陸に埋め来し吾子の齢を数ふ」
終戦の時、満州にいた石川は、日本に帰れないまま、満州で、11月に女児を出産します。
わずか100日で、その子は亡くなります。
極寒の地、凍土は硬く、子どもの亡骸を十分に埋めることが出来なかったことを戦後、悔やみつづけてきた石川。
その思いを詠ったのが先ほどの歌です。
今年小学校6年生になった、長女は、修学旅行で広島を訪ねました。
しっかり学んで、平和を築く人材へと成長してほしいと思います。
平和のリレーを父や母から私たちは、しっかり引き継いでいこうと思います。
広島が25年ぶりにリーグ優勝したこの年に、原爆投下から30年後の1975年の広島とカープの活躍を描いた重松清さんの「赤ヘル1975」が一人でも多くの皆さんに読まれることを願っています。
少年時代に阪急ファンだった私は、日本シリーズの頃からいつの間にか広島カープファンになっていました。
そして、この小説を読んで、益々、カープが好きになりました。
来季も広島カープの活躍を大いに期待しています。
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