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私の祖母の妹 石川みち枝の戦中 極寒の満州に生後100日の我が子を埋葬

 2002年8月17日の宇部日報に、「焦げついた夏 記憶の引き出し」というコーナーに、私の祖母の妹の当時83歳だった石川みち枝が登場しました。記事そのものを今日は紹介したいと思います。
 「『不思議ですね、昨日のことは忘れても、57年前のことははっきり覚えている。暑い夏がきて、このころ(8月)になると、気持ちが高ぶります』あらつちの同人で、歌人、石川みち枝さん(83)=宇部市小野区上小野=は毎年、夏になると旧満州で体験した過酷な思い出にさいなまれる。極寒の凍土をわずかだけ堀り起こし、埋めてきた長女は誕生後100日しか生きられなかった。『夏になると、生きていたら何歳になるだろうか、と歳を数えている』とつぶやく。戦争の傷跡は痛む。夫の正春さんは旧満州電電公社奉天管理局へ勤めていた。終戦直後1945年(昭和20年)8月9日午前5時、ハルピンへ出張する正春さんの弁当をつくっているとき、臨時ニュースが旧ソ連の参戦を伝えた。正春さんはそのまま出かけたが、『奉天は決戦場になるかも知れないので、婦女子は南満の営口市へ疎開せよ』という指令が出た。全社宅の女性と子ども500人と、付き添う男性が数人、その日のうちに出発した。その時、石川さんは妊娠7か月、荷物は子どものものがほとんどで、リュックを背負い、2歳の長男は前にくくりつけた。石炭輸送汽車で南下。途中で何度も停車、やっとの思いで営口市へたどりついた。避難民のような生活、食べるものも満足になく、コウリャンめしだけだった。子どもは下痢を起こし、親が一度、かみ砕いて食べさせるという状態だった。『忘れもしないのが8月15日、暑い、暑い日だった。みんなが子どもを抱きしめ、地に伏して泣いた』と、終戦の日を思い出す。追われてくるようにしてふたたび奉天を目指すことになる。今度は徒歩による行軍。炎天と熱砂のなか、略奪を恐れ、列をつくって歩いた。8月下旬、奉天につき、正春さんと再会した。それから引き揚げる46年7月までの1年間は、食べるものも、着るものも、住むところも満足にないつらい生活を強いられた。その間には、わが子との悲しい別れがあった。石川さんは、11月に女の子を出産。しかし、わずか100日あまりの生命だった。『母乳がでなかったので、粉乳を買って飲ませた。ところがしだいに病み細ってゆき、医者に診てもらうこともできなかった。人形のようにやせ、息を引き取った。極寒の地、凍土は硬く十分に掘り返すこともできなかった』と目頭を押さえる。正春さんは戦後、宇部市役所に勤務。90年に亡くなり、13回忌をすませた。 おくり火に亡き夫偲び大陸に埋め来し吾子の齢を数ふ という歌を詠んだ。『不況とはいえ。衣食はあふれている。ところが心はかえって貧しくなっている。もったいない生活だ。朝日を迎え、夕日を送る。当たり前の生活が平和と思うようになった』としんみり語る。石川さんのつらい夏がすぎていく。」
 この記事から22年が経過しています。みち枝は、90歳前後で亡くなったと記憶しています。
 みち枝の穏やかで、知性を感じる語り口を昨日のように思い出します。
 私の家族に関わる79年前に終わった戦争の中の記憶です。
 記事を書いた記者の方に感謝します。家族の記憶が記録として残されました。
 「朝日を迎え、夕日を送る。当たり前の生活が平和と思う」
 このみち枝の言葉を大切に、私もこれからの人生を歩んでいこうと思います。
 皆さんも79年前に終わった戦争の中での家族の記憶を記録しておられたらと思います。
 戦後がこれからもずっと続きますように。

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