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NHK終戦ドラマ「しかたなかったと言うてはいかんのです」

 8月13日、NHKの終戦ドラマ「しかたなかったと言うてはいかんのです」が放映されました。このドラマの原作は、熊野以素著「九州大学生体解剖事件 70年目の真実」です。この程、原作を全て読み終えました。
 しんぶん赤旗の文化欄に、このドラマのチーフプロデューサーの熊野律時さんのインタビューが掲載されています。
 熊野さんは、制作する上で気を付けたことはと問われ次のように答えています。
 「誰の言っていることが正解、とはしたくありませんでした。この事件自体、誰の発案なのか真相は分かっていません。ただ事実として、実験手術が行われた詳細な記録が残っています。誰が正しいとか、誰が悪いとか、誰のせいだというのではなく、一人ひとり自分の頭で『本当はすべきことは何だったのか』と考えていく。今の時代にも、やっぱり誰かのせいにして自分はそれ以上考えないことがある。その積み重ねが、実験手術に象徴される恐ろしい過ちにつながっていくんじゃないかと意識しました。」
 先日、高橋純子著「仕方ない帝国」を紹介しました。
 「既成事実への屈服が、さらなる屈服を生む。対米追従はしかたない。沖縄に米軍基地が集中するのは仕方ない・・・。現状追認の無限ループ、そんな『仕方ない帝国』に生きてて楽しい?」
 熊野さんの制作意図は、高橋さんの「仕方ない帝国」との時代認識に通じていると感じました。
 原作を書いた熊野以素さんの伯父が、当時、九州大学医学部第一外科助教授の鳥巣太郎です。
 米軍捕虜8人が「実験手術」によって殺された事件に、鳥巣太郎は、抵抗しつつ、手伝います。
 戦後に行われた「横浜裁判」で、鳥巣は首謀者の一人として死刑判決を受けます。鳥巣の妻・蕗は様々な妨害をはねのけ、再審査を請求し、減刑を勝ち取ります。
 鳥巣は、出所後、福岡市内で外科病院を開業します。
 ドラマの表題になった表現について原作にこう書かれてあります。
 「上坂冬子氏の『生体解剖ー九州大学医学部事件』の巻末に、叔父へのインタビューが載せられている。インタビューの終了近く、事件当時、第一外科の医局員は一体どうすればよかったのか、ああする(命令に従う)よりほかに仕方がなかったのではないかと問いかける上坂氏に、『それをいうてはいかんのです。おっしゃっちゃ駄目なんですよ』伯父は強く否定した。『どんなことでも自分さえしっかりしとれば阻止できるのです。・・・すべては林博士のおしゃったことに付きますよ。言い訳は許されんとです。当時反戦の言動を理由に警察に引っぱられた人たちがおりました。あの時代に反戦を叫ぶことに比べれば、私らが解剖を拒否することの方がたやすかったのかもしれません。ともかくどんな事情があろうと、仕方がなかったなどというてはいかんのです』」
 鳥巣が「林博士がおしゃったことに付きますよ」と言っている内容について本書はこう書いています。
 1948年、横浜で「生体解剖事件」の裁判が始まります。
 「5月20日、林春雄博士が検察側証人として登場した。74歳、「東京帝国大学名誉教授、日本学士院会員、貴族院議員、当時の医学界の頂点にいた人物である。医師なら誰でも知っている。(中略)林博士は調書に付け加えて、助教授以下医局員が患者の健康を損なうような手術に参加することを命じられたらどうすべきかということについて、『私がその立場なら参加しない。医学は、治すもので殺すことではない』と見解を述べたあと、『日本では手術中は執刀者の命令は絶対で、手術が始まったら助手やナースは服従するほかはない。ことに九州は封建的な土地柄である・・・裁判にあたって、この点は考慮してほしい』と希望した。『もし、(教授の)部下の医師が、手術に参加した後で違法な手術に気がつき、次回同様な手術への参加を要求されたらどうすべきか』健治の質問は確信を突いた。『もし、1回目の手術が違法なものと気づき、次回の手術も同様のものであるならば、参加すべきではない』博士はきっぱり言い切った。弁護側反対尋問に立ったサイデル主任弁護士は、『もし、戦時中の1945年5月で、その場に軍隊が来ていて、軍の命令と信じていても、答えは同じか』と迫った。『私は手術が不必要なもので、してはならないものだと知っていたら、手伝わない』『主任教授に命じられたら?』『主任教授に手術はすべきではないと忠告し、手術には参加しない』『拒否したら軍から罰せられると思ったら?』『もし軍が私を罰したければよいと思うばかりである』『手術が始まっていて、将校が立ち合い、軍のトラックと武装兵士がいるという状況で、あなたが医局員で手伝いを命じられたら?』一連の質問はまさしく鳥巣のケースを突いている、『もし、そんな状況があったら、それは軍自体の命令というよりもならず者の命令だと思う。私は命令には従わないと思う』」
 作者は、伯父との思い出を次のように書いています。
 「1964(昭和39)年の夏休み、法学部生になった私は体調を崩し、伯父の医院で療養していた。ベッドで憲法の教科書を読んでいた私に伯父は『以素子、憲法の解釈はただ一つだ。あの憲法を作った日の気持ちに立ち返って考えてみればわかる』と強い調子で言った。『日本は永久に戦争を放棄したのだ』」
 原作を書いた熊野以素さんは、本書を書いた意義を次のように書いています。
 「平時ならば善良な意思として生きたであろう人々が、恐ろしい戦争犯罪に加担していく。すべては戦争の狂気がもたらした悲劇であった。この事実を歴史の闇に葬ってはならない。再び『戦争のできる国』になろうという逆流が渦巻く今日こそ、明らかにしなければならないという思いで、本稿を記した。」
 私は、「戦争させない9条壊すな総がかり行動うべ実行委員会の事務局長を務めています。
 憲法が禁止した集団的自衛権行使を容認する安保法制=戦争法が強行された月から毎月、宇部市役所前で集会とデモ行進を続けています。
 この行動が今月で、72回目を迎えます。72回とは丸6年が経過したことを意味します。
 「戦争のできる国」になることは仕方がないでは済まされません。まさにNHKドラマの題名「しかたなかったと言うてはいかんのです」という気持ちです。
 山口県では、来月以降、総選挙と参院補欠選挙があります。
 「戦争できる国」づくりを進める候補か、立憲主義の回復を求める候補なのかが対決軸です。
 今こそ、「仕方ない帝国」を乗り越え、戦争放棄の憲法が生きる政治を取り戻す選挙結果を山口県から築いていきましょう。
 NHKドラマ「しかたがなかったと言うてはいかんのです」をご覧になったみなさん、感想をお聞かせください。

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