議員日誌

朝鮮人1258人 山口・宇部の長生炭鉱

 9日付しんぶん赤旗「日曜版」に、宇部市の長生炭鉱の水没事故で100人以上の朝鮮人の方々が亡くなった歴史が「歴史に向き合う」という特集で取り上げられました。

 「日中戦争のさなかの1939年9月、日本政府は財界の要請にこたえ、『募集』による朝鮮人の日本への移入を閣議決定しました。戦争に駆り出された国内労働力の不足を補うためです。長生炭鉱には同年10月から42年2月までに朝鮮人1258人が強制動員されました。当時、長生炭鉱の鉱務課が作成した『集団渡航鮮人有付(ありつけ)記録』には、40年10月17日に到着したした82人が2日後の入所式までに逃亡。その後の教習機関の4日間で8人の減員が記録されています。市民らでつくる『庁瀬炭鉱の水非常を歴史に刻む会』の井上洋子共同代表(68)は言います。『作業も始まっていないのに1週間で21人も消えた。本人の意思で来たのではないということです。このような実態を知ることが必要です。』強制動員された朝鮮人の『合宿寮』は3メートル以上の板塀に囲まれ、門は常に監視されて外出も許されず、収容所のようでした。41年、18歳で強制動員された金景鳳(キム・ギョンボン)さんは証言しています。『母が日本の巡査の足を引っ張り、泣いて引き止めたが連行された。苦しい炭鉱生活を抜け出すため3人で逃げたが捕まった。2人は殴り殺された。私は木の棒でしこたま殴られ、いまでも頭に傷が残っている』42年2月3日午後9時ごろ、海岸の坑口から約1キロ沖合の海底坑道で天盤が崩落し、坑内に海水が一気に流れ込みました。朝鮮人136人と日本人47人が閉じ込められ、遺体はいまも海の底に残されたままです。」

 「会の山内弘恵さん(51)は活動を通じ、事故で父を失った遺族の苦痛を知りました。『申しわけなく、何かしなければと思った。遺族と交流し、事実に向き合うことの大事さを知った』会は2013年に追悼碑を建立。その年の追悼集会で韓国の遺族会会長は『日本の皆さんが大きな声で日本政府に遺骨収集を要求してください』と発言。遺族会事務局長は『犠牲者と遺族に謝罪の意味での心的物質的補償を日本政府に求めていく』と訴えました。91年の発足から、追悼碑建立を主要目標に活動してきた『刻む会』。急区会の遺骨返還の願いに応えるため、今年2月からは政府交渉を始めました。課題の一つがピーヤの保存と説明板の設置。宇部市が用意している説明文は『石炭は・・・国のエネルギー政策を支えてきました。私たちは先人たちの命をかけた炭鉱への思いを未来に継承していかなければいけません』と書いています。そのため会は、市側と説明文の修正の協議を続けています。会の小畑太作事務局長(51)は指摘します。『犠牲者を勝手に日本国の協力者にした内容は、強制動員・強制労働の事実を隠し、犠牲者と遺族の尊厳を傷つける。かえって問題を悪化させる。政府も重大な人権侵害を認め、遺骨返還と謝罪、賠償をすべきです』」

 9日付のしんぶん赤旗日曜版が読みたいという方は私にご連絡下さい。

 私も、数年前から、「長生炭鉱の水非常を歴史に刻む会」の運営委員として、毎年の「追悼集会」の運営に参加しています。

 「刻む会」に協力したいという方は、私にご連絡下さい。

 植民地支配下の元徴用工ら強制動員被害者への賠償を日本企業に命じる勧告大法院による判決が相次いでいます。

 宇部市では、長生炭鉱だけではなく宇部興産などでも多くの外国人労働者が強制動員された事実があります。

 これら事実をしっかり掘り起こし、政府へ賠償などを求めて力を尽くしていきたいと思います。

 外国人への強制労働・強制動員に関する皆さんのご意見をお聞かせ下さい。

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