浜矩子さんの「みんなで行こうアホノミクスの向こう側~平和の経済学を目指して~」の中に、孔子の「論語」が引用されています。
「十有五にして学に志す
三十にして立つ、四十にして惑わず、
五十にして天命を知る、六十にして耳順う、
七十にして心の欲する所に従えども、矩を踰えず。」
浜先生は、「心の欲する所に従えども、矩を踰えず。」を解釈しています。
「『心の浴するところに従う』とは、要するに自分がやりたいことを、やりたいように、やりたいだけやるということだ。心のおもむくまま、欲の命じるままに行動するということである。だが、その一方では『矩を踰えず』であるべしと孔子は言っている。ここでいう『矩』とは何か。それは、社会規範であるとか行動倫理あるいは人間としての節度ある生き方などを指している。人様に迷惑をかけない。人を泣かせたりしない。人の人権を踏みにじらない。要は、社会的存在としての真っ当さを総合的に表して『矩』と言っている。自分の欲をとことん追求しながら、だからといって、その過程で他者を傷つけるような社会規範にもとるような行動には決して及ばない。欲のために矩をながいがしろにすること、犠牲にすることは決してしない。欲と矩の黄金バランスだ。この黄金バランスを常におのずと、労せずして実現出来てしまう。これこそが、人間の奥義だ。孔子大先生はこのようにおしゃっているのである。」
浜先生は、「そもそも、経済活動そのものの真骨頂が、この欲と矩の黄金バランスにあると筆者は思う。経済活動が、多分に人間の欲に後押しされて動くものであることは間違いない。もっと稼ぎたい。もっといろんな事業に取り組みたい。人がやっていないことに挑んでみたい。そのような願望や熱望に駆られて、人々は経済活動を展開する。だが、それと同時に、経済活動は、あくまでも人間を幸せにするという条件を満たしていなければいけない。人権の礎たる役割を全うしていなければならない。その意味で経済活動が『矩を踰える』ことはあり得ない。経済活動であるということは、おのずと『矩を踰えず』であることを意味している。いかに奔放に夢や切望の浴するところを追い求めていようと、決して矩を踰えることはない。これぞまさしく、経済活動の原点的な姿にほかならない。孔子大先生は、特段、経済活動に着目して欲と矩の関係を説かれているわけではない。だが、さすがに偉大なる哲学者は、おのずと経済活動の本質も見抜かれている。」と書いています。
お釈迦さまの言葉の中いも「欲を少なくして、足るを知りなさい」(少欲知足)があります。
「矩を踰えず」は「足るを知る」ことに通じる言葉だと思いました。
ちなみに、浜矩子先生の「矩」は孔子の「矩」という漢字です。
ちなみに、私の「一規」の「規」は「のり」と読み、「矩」と同じ意味の言葉ではないかとこの浜先生の文章を読んで感じました。
少し調べると「規」にはコンパスの意味が、「矩」には、曲尺の意味があり、両方とも基準となるという意味がある言葉のようです。
いずれにしても、「矩を踰えず」を私は「規を踰えず」「足るを知る」と理解してこれからも真っ当に生きていきたいと思います。
余談ながら私は、50歳を超え、「天命を知る」年となりました。
私は、天命こそが「矩を踰えず」生きていくことを意識することなのかとこの文章を読みながら感じました。
そして、経済が「矩を踰え」ないようチェックして、人々が笑顔で暮らせる社会を築いていくことが私に与えられた「天命」だとこの文章を読んで感じました。
昨日も書きましたが、核抑止論こそが究極の「矩を踰える」理論だと感じました。
人類の存続を二の次に考えるのが「核抑止論」だとこの文章を読んであらためて感じました。
核兵器廃絶を求める運動に取り組むことは、私の「天命」だと感じました。
皆さんは孔子の言葉をどう受け止めておられますか。お教え下さい。
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