五木寛之さんの「私訳歎異抄」を読んでいます。
この本の冒頭で、五木さんは歎異抄に出会った頃の思いをこう綴っています。
「他人を蹴落とし、弱者を押しのけ生きのびてきた自分。敗戦から引き揚げまでの数年間を、私は人間としてではなく生きていた。その黒い記憶の闇を照らす光として、私は歎異抄と出会った。」
五木さんのこの辺りの体験は、五木さんの「林住期」という著作の「韓国からインドへの長い旅」という章でくわしく述べられています。
私の祖母の妹が終戦時、満州から引き揚げた経験がありますが、五木さんの体験と同様の話をしていたことを思い出しました。
終戦後、特に大陸から引き揚げた方々は、「人間としてでなく生きた」経験をお持ちなのでないでしょうか。
私なりに五木さんの言葉に導かれ歎異抄を読んでいますが、「善人ですら救われるのだ。まして悪人が救われぬわけはない。」
原文では「善人なほもって往生をとぐ。いわんや悪人をや」。
やはりこの言葉は胸に残ります。
五木さんは、この章の最後をこう訳しています。
「わたしたちは、すべて悪人なのだ。そう思えば、わが身の悪を自覚し嘆き、他力の光に心から帰依する人びとこそ、仏にまっ先に救われなければならない対象であることがわかってくるだろう。」
歎異抄は、親鸞の弟子の唯円が親鸞思想をまとめたものです。
歎異抄の入口で茫然としている私ですが、少しずつ学んでいきたいと思います。
そして、歎異抄から世界の動きを考えてみたいと思います。
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