議員日誌

怪談

 昨夜、中田秀夫監督の「怪談」を観ました。尾上菊之助の新吉、黒木瞳の豊志賀の配役は的中したのではないでしょうか。特に、菊之助は、美しさとやさしさと悪さをもった新吉の表情をよく表現していました。私がもし監督をしても新吉は、菊之助と思わせるような演技でした。

 原作の「真景累ヶ淵」は、文庫で450ページの長編です。映画では、前半部分が映像化されています。新吉が叔父さんの家に帰ったら豊志賀が来ている。駕篭で帰そうとすると豊志賀の訃報が。そんなことはないと駕篭を確かめると豊志賀の姿はない辺りは、映像によって話しがよく分かります。

 映画で最終版にお賤が登場して、新吉が殺される辺りは、長編が割愛された弊害が出たようにも思います。映画のお賤は、ただの悪女としか描かれていませんが、原作では、お賤は、新吉の父の妾の子で、兄妹だったことが分かります。このように話しの因果は、その後も続く訳ですが、映画の都合上、新吉を原作にはなかった前半で殺ろす脚色に少し違和感を持ちました。

 しかし、この辺りから新吉とお賤は、次々に人を殺める。新吉の悪さも極まります。登場人物も増え、因果の絡まりも深まりますから、映画にしずらかったのでしょう。映画は、豊志賀を中心にしてある。新吉が死んで、豊志賀の元に戻るという脚色でした。映画の結末の詳細は、劇場で。

 文庫の解説に、「怪談」は、人間を表す手段だとありました。人情噺の場合以上に、自由に、一層、深刻に、奔放に人間性が摘出されるとありました。

 新聞には、「怪談」以上の事件が踊っています。人間がこの世で一番恐ろしい存在であることは、昔以上に先鋭化している時代です。

 「怪談」は、「因果ばなし」とも言われるそうですが、昔の人は、このような話から人間の恐ろしさを教え、自制することを教えたのではないかと思います。「因果応報」ではなく、今日的に、何故、人を殺してはいけないのかを私たちは、学ばなければなりません。

 それには、命の大切さを教える教育と、人間を大切にする社会の実現が不可欠でしょう。

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