今、赤旗日曜版の配布から帰ってきました。NHKラジオで、五木寛之さんの青春の歌を綴ったシリーズの再放送が流れていました。その中で、「原爆許すまじ」が流れていました。五木寛之さんの本は、「青春の門」や「蓮如」「日本人のこころシリーズ」などを読みました。最近では仏教に関わる著作も多い五木さんですが、独自のスタンツの中にも、平和を願う思想は共感するところ多くあります。
久しぶりに「原爆許すまじ」を聴きました。私は、大学のサークルで、これらの歌をよく歌っていました。数年前に、久しぶりに大学に行って、サークルの部屋に入れてもらいいまして、後輩が元気に活動しているのを見ましたが、彼らも、今は、歌はあまり歌っていないではないかと思います。肩を組んで歌を歌った最後の世代ではないかと思います。厚南で開かれている「うたごえ喫茶」に数回行ったことがありますが、そこで歌われている歌の半分位は歌えます。
「原爆許すまじ」の聴いていて、歌の中にある「三度許すまじ原爆を」のフレーズが、私の決意であることを改めて実感しました。
我が一族の中にも伝えなければならない戦争の悲劇があります。私の祖母の妹が味わった辛酸です。この中身は、02年8月17日の「ウベニチ」にも大きく報道されました。彼女は、石川みち枝といい。今は、歌は詠んでないようですが、数年前まではあらつちの同人として歌人でした。彼女は米寿になりましたが、今も元気で小野に暮らしています。
彼女の夫は、旧満州の電電公社に勤めておいました。彼女序ら家族は、満州で暮らしていました。そして終戦となりました。彼女は、その時、妊娠7ヶ月でした。彼女は、2才の長男を守ることでやっとでした。結局、彼女ら家族が帰国することができたのは、終戦の翌年の7月となりました。
その間に、生まれたばかりの子どもとの別れがありました。彼女は、11月に女の子の出産。しかし、100日で女の子は死んでしまいます。彼女が今も悔やむのは、女の子の痩せた小さな亡骸を埋めることが出来なかったことです。極寒の満州の土は凍っていたのです。
彼女の句を紹介します。
おくり火に亡き夫偲び大陸に埋め来し吾子の齢を数ふ
昨日は、戦争中に餓死させられた上野動物園のインド象の「はな子」の物語が放映されていました。60年前の歴史に真摯に向き合う8月にしたいものです。そして、この歴史を繰り返してはならない決意を新たにする月にしたいものです。
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