議員日誌

岩手県での災害ボランティア活動を終え帰ってきました。

 5日ぶりのブログとなりました。無事に山口県に帰ってこれたことを喜んでいます。

 まずは、行程です。

 10日(木曜日)、午後6時30分に山口市の党県委員会を自動車で、出発しました。

 高速道路中国道の小郡インターから名神・北陸・常磐道を経由して、東北道を盛岡インターで下車し、国道106号を経由し、11日(金曜日)、午後4時過ぎに、党宮古地区事務所に到着しました。

 11日、12日とボランティア活動を行いました。

 帰りは、12日の間に、北上市まで移動しました。13日の朝に、東北道水沢インターから高速道に乗り、途中、名神の多賀サービスエリアにあるホテルで仮眠し、14日の午前11時過ぎに、山口市の党県委員会の事務所に到着しました。

 片道1500キロ。私と木佐木議員、吉田事務局長の3人が交替でハンドルを握りました。これだけ高速で移動したことは私の人生では初めての体験です。

 通過した県は、広島、岡山、兵庫、大阪、京都、滋賀、福井、石川、富山、新潟、福島、宮城、岩手となります。

 往復には大変苦労しましたが、私の今後の人生に大きな影響を与えるだろう大変貴重な経験をすることが出来ました。

 一言でいえば、津波の破壊力に度肝を抜かれました。

 震災から、丁度3ヶ月目の訪問でしたが、町の中に残された瓦礫も、集められた瓦礫も撤去は始まったばかりでした。

 宮古市では、田老地区、鍬ヶ先地区、築地地区に立ちましたが、一部のコンクリートの建物は残っていましたが、一般の民家のほとんどが根底から壊れていました。

 特に田老地区の巨大な防潮堤に圧倒されましたが、これを越えた津波の破壊力には声も出ませんでした。

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 田老地区の巨大防潮堤の内側は、瓦礫の原野。

 活動を終え、国道25号線を南下しながら、山田町、大槌町、釜石市の被災現場に立ちました。

 特に、町長さんが亡くならたという大槌町の役場に立ち、町長さんの冥福を祈り、手を合せました。

 役場の前にたむけられた多数の花に胸が詰まりました。

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 大槌町役場にたむけられた花束。誰の声もしません。

 大槌町役場から市街地を望むと、一面が瓦礫の原野でした。主要な道路以外は、瓦礫はそのままでした。

 この町の復興は何年かかるのだろうと考えさせられました。

 避難されている方々の状況も知る事ができました。

 宮古市の田老地区の方々は、グリーンピアという元レジャー施設で暮らしておられました。

 巨大な体育施設のフロアーに高さ1.2メートル程度の段ボールの仕切りの中で、今も多くの方々が避難生活を送っておられました。

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 田老地区の避難所であるグリーンピアの体育館

 3ヶ月経過して、施設の敷地の中には、仮設住宅群が建設され、引っ越しが始まっていました。

 また、この施設には仮設テントがあり、そこには、日用品を売る店がありました。

 その女性店主の方にお話しをお聞きしました。

 「私も田老地区で被災しました。今は、テントが店ですが、近く仮設の店舗が建設される見通しです。将来、津波は怖いけれど、田老地区には帰りたい。」と話されました。

 宮古市築地・鍬ヶ先地区の方々の避難所である愛宕小学校の仮設住宅を訪問して被災者の方々とお話できました。

 避難所となっている小学校の体育館は、12日で閉鎖されます。

 完成したばかりの仮設住宅は引っ越しラッシュでした。

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愛宕小学校のグランドに完成した仮設住宅

 ある70代の女性に、「何か欲しいものはありますか。」と訊ねてみました。

 その方は、「帰る家が欲しい。」と話されました。

 60代のラーメン店を経営していた男性は、津波で全てを失ったと私たちに語ります。

 「50万円の義援金で車を買った。今後の生活の見通しは立ちません。」と話します。

 仮設住宅も期限は2年。その後の生活保障や住居の確保が課題だと分かりました。

 津波が襲った土地に家を建てるのか、高台に土地を確保するのか、復興計画の策定が望まれています。

 役場の機能そのものが失われた自治体には、人的にも財政的にも国や県の援助が更に必要であることが分かりました。

 この地域は、水産県岩手を代表する地域です。鍬ヶ先地区で漁船が接岸し、漁が復活していることが分かりました。

 しかし、田老地区をはじめ、殆どの漁港では、復興はまさにこれからだという状況です。

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 鍬ヶ先地区で被災した市場。復興はこれから。

 瓦礫の撤去、船の修復、漁港の整備、建物の整備など、漁の再開に向けて課題は山積していることが分かりました。

 テレビなどで、何時間も被災地の映像を観てきましたが、百聞は一見にしかずとはこのことを言うのかと痛感しました。

 それでも、私が被災地に立ったのは、岩手県北部の一部の地域。

 被災地は、岩手県南部、宮城県、福島県と広がっていることを想像しました。

 私は、現地に立って東日本大震災が国難と言われる理由がようやく分かった気持ちです。

 出来るならば、もう一度、現地に行きたいと思いました。

 山口に帰った今も、被災地の事を考えながら生活しようと思います。

 私は、山口県議です。被災地で学んだ事実を県政に生かすための論戦をこの6月から始めたいと決意を新たにしました。

 被災地に行かれたみなさん、体験をお聞かせ下さい。

 被災地の教訓を山口県で生かしていくためには、何が必要だとお考えですか。ご意見をお聞かせください。

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鍬ヶ先地区の被災した水産施設に立つ3人。(左が私)

 

 

 

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