私は、「現代川柳」の創立会員です。「現代川柳」誌から「新子句とわたし」という題で執筆を依頼されました。
以下内容をお伝えします。
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2004年6月6日、私は、第11回川柳大学全国大会に参加のために、神戸に向かっていました。時実新子学長(当時)は、この年、文業50年。学長の出身地、岡山市吉備路文学館で「新子その愛」と題する展覧会が行われていたのでした。私は、全国大会が始まる前の午前中に、吉備路文学館を訪れました。先生の句が並ぶ一角に、来館者の句を募集するコーナーがありました。私は、数句投句して、全国大会参加のために移動しました。
全国大会の中で、文学館に投句した作品の表彰式がありました。私の句が入選しました。賞品は、文学館で展示された学長の句のパネルでした。そのパネルが今でも私の座右に置かれています。「今ぞ今 死は生きること 生きて死ぬこと」
第11回全国大会から6年、学長没後2年。私は、この句に励まされて今まで元気で生きてきました。入選の順に機械的にパネルが贈呈されたので、学長から特別にこの句を送られたのではありませんが、他の句ではなくこの句が私の元にあることを今でも幸せに思います。この句に励まされて今日も生きていることを実感しています。
私は、2002年に時実新子主宰「川柳大学」の会員になりました。その前の2001年7月から学長の個人ゼミの生徒となりました。以来、先生が体調を崩される07年2月まで、毎月、10句を学長に添削していただきました。学長からの朱の文字が今でも私の財産になっています。
私は、2002年に自選100句の小さな句集を上梓しましたが、その時、学長からメッセージをいただきました。「藤本一規はどんな顔をして、この世のどんな場所にいるのかと思うことがある。思っているとぬくい風に包まれる。もしかすると私が生んだ末息子かもしれない。微笑がわいてくる。一度だけ聞いた。『イッキさん?』、いきなりイッキと呼ばれ少しとまどったが、『はい、イッキです』と答えた。その瞬間まで彼は『イッキ』ではなかったはずだ。カズノリとかカズキとかだったであろうに、ごちゃごちゃ言わぬところが気に入った。縁はたちまちにして結ばれ、彼は私の末息子になった。三十何歳かで山口県の県議をしているらしいが、そんなことはどうでもよろしい。川柳以外に用はない。」「一規さんは時実新子をどこかで知って川柳に入り、めぐりめぐって私の主宰する『川柳大学』にとびこみ、一気(イッキ)に新子を川柳の師に定めたというのだ。困ったな。いや困らない。こんなうれしいことはない。これらか困るのは一規のほうだろう。末っ子だから親との縁は短いよ。親は子をしごくよ。スモウ部屋だよ。それでもいいなら引きとろう。」
学長のこの言葉は、私の宝物になっています。学長没後、私は作句意欲を大きく減退させて今日に至っています。学長の「困るのは一規のほうだろう」の通りの自分になっています。
先日、田辺聖子の人生あまから川柳」を読みました。田辺さんは、川柳をこう絶賛しています。 「川柳のよさを、言挙げして下さい、といわれたら、私は、〈川柳あって、世は生きやすし〉といいたい」「さまざまな川柳を知り、親しむことで見晴らしよくなり、人生を渡りやすい、生きやすい、笑いやすい。神々の贈り物とでもいうべき、笑いとゆとりが生れ、人生の哄笑を誘う。それは人間賛歌の笑いである。私は佳き川柳に、人生でめぐりあえて、よかった、と思う」 田辺さんの励ましに答えて、作り手として精進したいと思いました。
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