先日読み終えた前川裕さんの「クリ―ピー」が原作で黒沢清さんがメガホンを取り、来月上映されるということで、黒沢清監督作品をこの連休観ています。
黒沢清監督作品として私が最初に観たのが、2012年にWOWOWの連続ドラマとして放映された「贖罪」です。
原作は、湊かなえさん。
湊かなえさんは、作品の殆どが映像化されている作家の一人です。
映画になった「告白」「北のカナリアたち」「白ゆき姫殺人事件」は全てDVDで視聴しました。
どれも心に残る作品です。
今秋に三島有紀子監督によって「少女」が公開される予定です。この作品が今から楽しみです。
ドラマでは、TBS系の「夜行観覧車」「Nのために」は娘と一緒に視聴しました。
さて、話しを「贖罪」に戻します。
原作の文庫版の裏表紙を引用します。
「15年前、静かな田舎町でひとりの女児が殺害された。直前まで一緒に遊んでいた四人の女の子は、犯人と思われる男と言葉を交わしていあtものの、なぜか顔が思い出せず、事件は迷宮入りとなる。娘を弔った母親は彼女たちに言った-あなたたちを絶対に許さない。必ず犯人を見つけなさい。それができないのなら、わたしが納得できる償いをしなさい、と。十字架を背負わされたまま成長した四人に降りかかる、悲劇の連鎖の結末は!?」
女児が殺害される直前まで一緒に遊んでいた四人の女の子は、15年後に、それぞれ殺人事件を起こしてしまうのです。
私は、この悲劇の連鎖を映像で観て、文字で想像しながら、Eテレ100分de名著で勉強した「歎異抄」の13条の下りを思い起こしました。
まず、原文です。
「一人にてもかなひぬべき業縁なきによて、害せざるなり。わがこころのよくてころさぬにはあらず。また害せじとおもふとも、百人・千人をころすこともあるべし」
現代語訳です。
「思い通り殺すことのできる縁がないから、一人も殺さないだけなのである。自分の心が善いから殺さないわけではない。また、殺すつもりながくても、百人あるいは千人のひとを殺すこともあるだろう」
Eテレ100分で名著「歎異抄」の解説者である相愛大学の釈徹宗さんは、13条のこの下りを「『状況次第で人間は何をするかわからない』という思いは、親鸞が生涯持ち続けたものでした。だから、彼は90年間生き抜いて、一度も『悟った』とは言えなかった。しかし一方で、『信心の人は如来と等しい』とも言います。その意味は『他力の信心を得た人は、仏様と同じく悟りを開いたのと等しい』というものです。この二律背反の同時成立が親鸞の本質とも言えます。一方ではどこまでいっても凡夫であることを語り、一方では新人の人は如来と等しいと語るのです。」と解説しています。
釈さんは、「歎異抄」について、「この書が『体系的リミッター(暴走を抑制する装置)」としての性格をもっていることは間違いありません。(中略)宗教という領域は社会とは異なる価値体系をもっています。だから、ときには反社会的行動にもつながります。しかし、安易にそこへと行ってしまわないようリミッターが設定されているのです。それが教義や教学であったり、先人の導きであったり、伝承や伝統様式であったりするのですが。『歎異抄は、親鸞の思想体系と呼応する形で呼応する形で成立したリミッターだったのでないでしょうか。」とも書いています。
「歎異抄」の引用が長くなりましたが、「贖罪」を観て読んで、私は、「状況次第で人間何をするかわからない」存在であることを知る大切さを伝えていると思いました。
同時に、そうならない、リミッターを持つべきことをも教えていると感じました。
非戦平和を願う真宗門徒の会の会合で、長門市龍雲寺の長岡裕之住職は、「歎異抄」13条の「さるべき業縁のもよほさば、いかなるふるまひもすべし」(状況次第で人間は何をするか分からない)を引用し、「(9条をないがしろにする)憲法改正(改悪)は縁を整えることになる。だから反対なのである。」と話されました。
憲法9条は、日本のリミッターでとも言うべきものだということを今日のブログを書きながら知ることができました。
「贖罪」とはリミッターを持つ人間になるためにはどうするか考えることでしょうか。
引き続き、これらのことを心に留めて生きていきたいと思います。
ドラマ「贖罪」を観た皆さん、小説「贖罪」を読んだ皆さん、感想をお聞かせ下さい。
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