議員日誌

アドルフに告ぐ

 ナチスの蛮行を描いた映画「やさしい本泥棒」を観て、手塚治虫さんの「アドルフに告ぐ」を思い出し、今、再読しています。

 この本は、「ヒットラーがユダヤ人」だったという説を基に、ドラマが展開していきます。

 この仮説がどうであったかどうかは別にしても、「アドルフに告ぐ」は、戦争が起こした悲劇を詳細に綴っています。

 2巻の最初(7章)では、「日本軍は、南京 武漢三鎮 徐州 広東と戦域を広げる 狂気と泥沼の中へ みずからのめりこんでいった」

 「何前何百もの一般市民も撃たれ くしざしにされ ためし斬りにされていった」

 「女子どもでも 便衣隊(スパイ)とかゲリラの名のもとに片っぱしから惨殺された」

 などと日本軍が行った中国での蛮行を表現した場面もあります。

 6月8日、しんぶん赤旗日刊紙「日本の戦争」を考えるに、マレー半島における日本軍の華僑虐殺の実態が掲載されていました。

 鄭来さんは、1942年の3月4日のことをこう証言しています。

 「日本軍がゴム園にやってきた。ゴム円には男、女、子供合わせて300人ほど、うち男は100人くらいだった。日本兵が私たちのいたグループを宿舎から離れたところに連行し、一列に並ばされた。母、私(6歳くらい)、弟、妹の順だった。すると、何もいわずに日本兵の一人が、母が胸に抱いていた生後6ケ月ほどの下の弟を奪い取って空中に放り投げ、隣に立っていた日本兵が落ちてくる弟を銃剣で串刺しにした。弟は血だらけになり、しかし即死ではなく泣き声がした。

 その恐ろしい光景を見ているうちに、私も後ろから銃剣で刺され、体を貫通した銃剣が胸から突き出た。そして銃剣を抜くために蹴られて前に倒れた。意識がもどったのは日本兵が死体を隠すために、ゴムの木の葉を上から置いたときで、私は本能的に死んだふりをしていた。4歳の弟と二人でとにかく逃げた。生き残ったのは2人だけだった。申し上げたいのは歴史を忘れてはならないということだ。」

 「手塚治虫とっておきの話」の中で、漫画評論家の石子順さんがこう書いています。

 「『僕は大きな戦争を、少年時代に体験してきました。だからこそ、生きているというありがたさ、生きることの尊さを、みなさんに訴えたいのです。それと同時に、生きていく苦しみも読みとってほしいと思います。』(『手塚治虫漫画40年』)。つまり15年戦争が手塚修さんの子どもから少年時代にぴったり重なっていたものであり、戦争の直接体験も、生と死のわずかなちがいによってからくも声明を守りおおせたというきびしいものであった。だから、子どもたちに生命の大事さを訴えたいというやむにやまれない思いにとらわれてきた。

 この声明を大事にしようというメッセージは、さらに4つのテーマによって描きこまれていく。それは、「自然の保護」、「生きものへの賛歌」、「科学文明への疑い」、「戦争反対」であって、これらは、それぞれの作品に、時には濃く、時にはやわらかく、そして時には激しく、またやさくしく脈打っている。」

 手塚さんにとって「アドルフに告ぐ」あ、激しく「戦争反対」を描いた作品の一つだと思います。

 戦争か平和からが問われる今、手塚さんのメッセージを本作品からしっかり受け止めたいと思います。

 

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