本日、日本中国友好協会山口県連合会の役員会を開き、5月に県内3ヶ所で上映する「嗚呼 満蒙開拓団」の試写会を行いました。
脚色なく、満蒙開拓団で何があったのかという証言がまとめられた一級のドキュメンタリー映画でした。
二度と同じ過ちを繰り返さないために、戦争を知らない私たち世代こそ、見るべき映画だと痛感しました。
さて、この映画に取り組む中で、山口県内で、どの程度、満蒙開拓団に行っていたのかの資料を発掘しています。
その中で、「山口文書館研究紀要」昭和53年3月第5号より小山良昌氏の論文「山口県出・満州開拓団の記録」のコピーを入手しまhした。
小山氏の論文によると、山口県出で、7つの開拓団が満州で結成されていたとのことです。
開拓団名と入団者数の概要は以下の通りです。
①昭和松陰開拓団(約65名)
②大島開拓団(約280名)
③下金馬川開拓団(約347名)
④新発開拓団(約401名)
⑤昌図山口開拓団(約388名)
⑥永平岩国開拓団(約234名)
⑦黒頂防長開拓団(約130名)
小山氏の調査だけでも山口県関係の7開拓団で1845名が満州に当時おられた事が明らかです。
全国では、27万人開拓団員が満州で生活していたと言われています。
その内、約8万数千人が、ソ連参戦後、日本の敗戦によって、帰国出来ずに亡くなっています。
悲劇の多くが、小さな子どもたちの死であったことが、この映画によく描かれています。
政府は、この満蒙開拓団の悲劇を生んだ責任を再認識すべきです。
その事が、再び過ちを繰り返さないために重要なことです。
山口県からの団員の悲劇も相当なものだったと思います。
山口県も山口から満蒙開拓団員を募集する上で重要な役割を当時果たしたものと思われます。
この責任も再認識し、その教訓をこれからの行政運営に生かすべきです。
皆さん方の中で、満蒙開拓団の歴史をご存知の方はおられませんか。
その内容をお教えいただけないでしょうか。
二度と過ちを繰り返さないために。
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突然のメールで失礼します。
当方東京都杉並区在住のサラリーマン47歳です。
先日新宿で満蒙開拓団を描いた映画「望郷の鐘」を鑑賞し、その後古本屋で満州開拓義勇軍関連の書籍を購読しました。その本の中で山口県の開拓団を率いていた桂哲雄(かつらてつゆう)という方が、中国人農民と共に耕作地を開拓したと書かれていました。当時の日本政府は満州に土地購入のための公社を設立し、中国人農家から土地や家を安値で買収した後に開拓団にその土地をあてがう、という政策だったようです。桂哲雄さんは涙ながらに去っていく中国の方たちを引き留めたそうです。関東軍や公社をなんとか説得し、中国の農家の方たちと一緒に農作業を行ったそうです。そういったケースは稀で、他の開拓団からも非難されたとその本には書いていました。
私がネットで調べたところ桂さんは「部落出身の人で、部落と部落外の人を半々満州へ連れていきそこで生活を共にすることで偏見を解消しよと試みた。しかし結果はダメで、もう一度今度は部落の人だけで開拓団を結成して満州へ行った。」そうです。解放新聞山口県版2008年3月28日付、布引敏雄教授の講演記事にそう書かれていました。
桂哲雄さんに関してそれ以上のことは分かっていませんが、当時の開拓団は元々そこの土地を所有していた中国人を小作農として使うことはあっても、同等の扱いで迎え入れたという話しは見聞きしたことがありません。
この桂さん(私が購入した本には団長と書かれていました)のとられた行動がもし事実ならすごいことだと思いさらにネットを調べているときに藤本様のWEBを見つけましたので書き込みさせていただきました。
私はメーカー勤務のサラリーマンで、満蒙開拓団も部落問題もよく分かりません、僭越ながらこのような方が山口県の開拓団を率いて満州へ行かれたそうですよ、とお知らせしたく書かせていただきました。
拙文乱文をお許しください。
by 北川 央 — 2015年2月23日 18:19 PM