昨日、美祢市秋芳町の広谷毘沙門堂と福王田観音堂の木喰仏を見学しました。
まず、広谷毘沙門堂です。
秋芳洞入口のバスターミナル近くにある毘沙門堂
地元在住の木島忠與さんの案内で毘沙門堂を訪ねました。
木喰上人は、7月7日から約2ケ月広谷に滞在して「毘沙門天立像」「大黒天半跏像」「木喰自身行脚立像」を作像します。
「自刻像」は、立像で蓮華台の上に刻まれています。他の自刻像は、ほとんどが座像で、蓮華台の上の像というのは珍しいものです。
また、県内の現存している木喰仏の中でも、自刻像は、珍しいものです。
表面が田炭化しているが微笑が顕著な自刻像
更に、この自刻像は頭巾を被っています。これも珍しいものです。
像の表面が炭化していますが、1923年(大正12年)6月25日未明の毘沙門堂の火災によるものです。
毘沙門堂は、秋芳洞入口のバスターミナル近くにあります。
案内していただいた木島さんから昭和9年に毘沙門堂広場で広谷集落の方々が集まって「通夜祭」(田植泥落)を行った時の写真を見せていただきました。
昭和9年は、像の表面が炭化した後です。
木喰像の表面が炭化しても広谷集落の人々が木喰仏とともにあったことがこの写真に偲ばれます。
木島さんは「炭化した木喰仏だったから、盗難にも合わず、今日まで残ったのかも知れない」とも語っておられました。
木喰上人が広谷で作った句が残っています。
「夏旅や暑さをしのぐ広谷の人の心はいつもひろたに」
「木喰のかたみの姿眺むれば人の心もひろたにの里」
木喰上人が広谷の方々との心の交流をしていたことが伺われる句です。
広谷の人々は、この気持ちを今も持ち続け、毘沙門堂の木喰仏を大切にしていることが分かりました。
広谷には、80歳を超えた上人は高齢であり、集落の人々に火星をしてもらい「まわせえ、まわせえ」「どっちにでも回せえ」と言いながら刻んだという言い伝えが残っているとのことです。
次に福王田観音堂を地元の高木輝登さんの案内で見学しました。
美祢市秋芳町福王田の丘の上に観音堂はある。
福王田観音堂には、如意輪観音、不動明王、毘沙門天の木喰仏があります。
この三体の木喰仏は、赤や黒の彩色も残っており保存状況は良好です。
毘沙門天の背に書いた墨書銘に「日本千躰の内」の文字が私にも読めました。
福王田観音堂の毘沙門天。眉の黒など彩色鮮やか
木喰は、秋吉の地で千躰の仏像を作像することを発願したことが分かります。
木喰は80歳を過ぎて千躰仏を発願し、90歳の時に千躰の仏像を彫り終わりました。
NHK出版「NHK美の壺『円空と木喰』」に「木喰の容貌はというと180センチ近い体に髪を伸ばし、真っ白なひげをたくわえ、手には錫を持っていたという。まさしく仙人のようではあるまいか。」とあります。
木喰上人の事を調べれば調べるほど、卓越した人物に思えます。
木喰上人が60日間滞在した秋吉で木喰仏を見てそのことを実感するようです。
木喰上人は、8月15日に、美祢市美東町赤郷北河内に移動します。
今後、美祢市美東町北部の木喰仏を見学する計画です。
秋吉で木喰仏を大切にする住民の心の温かさに触れた一日でした。
案内していただいた方々に感謝いたします。
引き続き、木喰仏に関する情報をお聞かせ下さい。
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